カンボジア小学校建設物語(1)〜学生時代と教師時代編〜

カンボジアの農村部に小学校を建設すると決めてから、3年目のシーズンを間近に控えている。

2015年11月から、工事を開始する予定だが、これまでの流れをタイムラインに沿って記録に残しておこうと思う。

「なんでカンボジアに小学校を建てるの?」

「一人でやってるの?仲間はいるの?」

「お金はどうしているの?」

よく聞かれることを含めて、次の活動を始めて迷った時に、同じ道行く人の道標になるように、少しでも役立つページになればいいと思う。

 

2013年3月 仕事も安定した生活も手放した。

大学を卒業した2009年から4年間、静岡県の公立高校で常勤講師として勤務していた。

思えば、東京で過ごした4年間の大学生活が充実しすぎていて、高校卒業後に地元で就職していたら出逢えなかった人たちから刺激をもらい、いろんな景色を見て、いろんな体験をした。

「東京に出てきてよかった。」と心から思えた。

 

高校生の頃は勉強することが本当に嫌で、部活のためだけに学校に行っているようなものだった。

「働けば、勉強しなくて済む」という今思えば安易で、浅はかで、世間知らずな考えだけで、就職する気でいた。

身体を動かすことが好きで、人の役に立つという、体育会系なら誰もが考えうる「消防士」を目指した。

高2から高3に上がる時の最後の担任との面談で「東京に行ってからでも遅くないから」と言われて、少し大学を意識した。「今からでも本気になれば大学行けますか?」そう聞いた僕に担任の先生は「半分実技があるところを目指そう。」ということで、体育大を目指すことになった。

 

高校野球引退後、一生分と思えるほど勉強をした。平日は放課後から深夜まで8時間。休日も朝きっちり起きて13時間。人が変わったようにテキストと向き合って、図書館に住み込みたいほど居座った。

第一志望に受かって、晴れて東京へ。クラスメートや部活の仲間たちにも恵まれて、いい意味で僕の人格は崩壊していった。

「こうでなくてはいけない」

「こうあるべきだ」

それまでのたかが18年程度の人生の狭い世界観の中でで築かれた小さな価値観は、見事に崩され、そしてアップデートされた。

 

部活での体験、高い目標に向かって頑張る仲間、働くことが楽しかった焼肉屋のバイト、厳しくも社会を知ったガソリンスタンドバイト。4年間の中に詰め込めないほど毎日何かがあって、くだらないことで笑って、くだらないことで本気で落ち込んで、浴びるようにお酒も飲んだ。

 

卒業後、東京の社会人チームで野球を続けるか、地元に戻って高校教師をやるか。僕の進路から「消防士」は消えて、新たに2択になっていた。

「これだけの体験ができたのだから、地元の後輩たちにはもっともっと広い世界を観て欲しい」と感じていた。

しかし、同時にいただいた現役続行の道。最後まで迷って、僕は地元に帰って教師を目指すことにした。

 

4年間教員採用試験を毎年受けて、日中は朝から晩まで学校に勤務する毎日。

最後の2回は2次試験までいったものの不合格が続き、合格しない理由を県に情報開示をした。

 

「普通。」

 

ざっくり言えばそんな回答だった。

特に目立つわけでもない。トップアスリート級の実績があるわけでもない。普通と言われた僕は何か箔をつけたいと考えていた。

 

そしてもう一つ。最後の年に受け持った学年の子達とうまく分かり合えなかった自分。

一方的に押し付けるように指導し、子ども達の気持ちを理解しようとできなかった。

 

部活を引退した途端、よそ見をし始める子ども達。

進路が決まった者が増えるに連れて、浮かれていく教室内の空気。

 

結局、嫌な思いをさせたまま卒業していく生徒を出してしまった。

 

これで全てが決まった。

このまま生活していても、毎年変化もないし、生徒思いの教師にはなれない。

 

「一度現場を離れよう。」

「言葉の通じない国の教育を勉強して、もう一度言葉の通じる日本で教師としてレベルアップしよう。」

そう決めて退職。僕はインドとカンボジアを目指した。

 

 

 

 

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